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ツインーピークスという丘の上に案内し、サンフランシスコの夜景を楽しんだ後に、彼の家へと向かった。
朝が来て、その窓から見たティブロンの景色は、この世のものとは思えない、それは美しいものだった。
こんな豊かな環境に住める人がこの地上にいるのだ、と正直感激した。
Jの家にはおそらく一週間ぐらい滞在したと思う。
朝彼らと一緒にダウンタウンのSS通りと7番街の角にある障子工場まで行き、そこを基点に私は友人を訪ねたり名所を廻ったりした。
当時のサンフランシスコには二つの邦銀が現地法人を設けていた。
一つが加州T銀行(現在UBオブカリフォルニアに発展)、もう一つが加州S銀行であった。
東京銀行は外国為替専門銀行であり、アメリカに進出しているのは当然と思えたが、S銀行というのは意外な発見であった。
JはS銀行と取引があり、日系人が当地で米銀からなかなか事業資金を借りられない時に、同行が支援してくれたことを話し、Jの取引店の支店長にも引き合わせてくれた。
S銀行は第二次大戦前から、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、シアトルに支店を作り、日系移民の世話をしていたのである。
このようなS銀行の印象が、後に同行に応募する動機になった。
しかし1999年にはこの銀行は米銀に売られてしまい、シアトル支店も現在はもう存在しない。
Jはビジネスマンのチャリティーである「オプティミストークラブ」の世話役もしていた。
そのクラブの昼食会にも連れていってくれた。
その日は消防士の人々を招き、市民として、彼らの勇気を称え、感謝の気持ちを示す集いだった。
アメリカにおいては成功し、財を為すということは、それだけ大きな社会的な責任を担うことを意味するという。
最近のインターネットーブームでにわかに成金となった若者たちが、このような社会的な価値観を継承せずに、「金持ちは傍若無人に振る舞っても許される」と誤解していることを、クラシックな成功者たちは嘆いている。
このオプティミストークラブは、成功者たちが果たす社会的責任を再確認させる場ともなっている。
Jは熱心なクリスチャンで教会の活動にも熱心であった。
事業とチャリティーと教会とが、彼とEの、3つの活動の場であった。
後にS銀行就職の話をしたときの、彼の言葉が忘れられない。
「H、銀行というのはとてもいい職場だ。
銀行に入れば事業家がどのように成功するのか、また失敗するのかをよく観て勉強できる。
しかし銀行に勤めて一生を終わっては駄目だよ。
Hは優秀な若者なのだから、いつか自分の事業を起こしなさい。
銀行ではそのための勉強をするつもりで働きなさい」私は将来の独立など考えもしなかった。
永久就職のつもりでSに入ったのである。
だからJの祝辞は、とても意外で戸惑うものであった。
しかし結局彼がくれた貴重なアドバイスに従うことになったのである。
奉仕の人D当時サンフランシスコには、DーKという、もう一人私に大きな影響を与えた友人がいた。
彼は清貧を重んじる熱心なクエーカー教徒で、S大学の一角に本拠を置く「ボランティアーズーインーアジア」(VIA、アジア奉仕団)という学生団体のディレクターをしている。
Dと知り合ったのはWのキャンパスである。
私はW大学国際学生友好会というサークルに入っていた。
当時Wには約2000人の留学生か来ていて、このサークルの活動は、彼らの日本語の勉強や下宿探しなどを手伝うことから始まった。
W祭では大隈講堂でA新聞社などの協賛を得て、「日本語スピーチーコンテスト」を開催していた。
VIAの人々は年に2回、まず東京まで全員一緒に来て、そこからアジアの各地に英語指導のボランティア活動に入って行くのを慣行としていた。
VIAのメンバーには、大隈庭園でお茶会を開いたり、東京を案内したりした。
私は剣道を少々たしなんでいたので、型や練習試合を披露した。
彼らは限られた予算しかないので、本郷の日本旅館に宿泊するのが常だったが、時には国際学生友好会のメンバーの自宅にも泊めた。
これにはピンからキリまであり、自宅通学の人の家庭に当たってごちそうに預かる幸運な人もいれば、6畳1間の風呂もない下宿で雑魚寝、食事と言えばインスタントラーメンをすするとか、もっとひどいのは寝る場所がないから徹夜で焼酎を飲んで議論の相手をさせられるという不運に見舞われる人もいた。
でもそこはみな学生。
誰もが楽しく、いい思い出を作った。
Dに言わせると、これはアジアの人々のための活動と言うよりも、健全な心を持ったアメリカの青年を育てることにこそ一番の意義があるということであった。
S大学で学ぶような学生は、才能にも恵まれ、経済的にも一般的に恵まれ、社会のリーダーになる人々だ。
そんなアメリカの将来を担うリーダーたちが、社会に出る前に、この地球の上でさほど経済的には恵まれず、また文化も異なる人々に接するということが、どんなに大切かということを彼は考え、ボランティア活動の場を与えていた。
その活動がさらに広がりを見せたのは、ベトナム戦争が南の敗北に終わり、共産主義から逃れる大量のボートーピープルが発生したときである。
アメリカ西海岸は彼らを受け入れる窓口になった。
VIAは支援のために、S大学のあるハローアルトの近郊からベトナム語のラジオ放送を開始した。
アメリカが過去10年に受け入れた難民は約140万人。
日本が同じ期間に受け入れた難民は1万4000人である。
すなわちアメリカは日本の100倍の難民を受け入れているのである。
Dの住まいは、実につましいものであった。
低所得者用のアパートの割り当てを受け、さらに一部屋をSの学生に間貸ししていた。
自動車といえば一番安いカローラを「H、これは本当に壊れない良くできた車」だと言って10年以上乗りつぶすまで乗っていた。
セーターにはよく穴が空いていた。
彼はVIAが手にする寄付を一セントでも多く本来の活動につぎ込もうとする人だ。
そしてこの清貧に甘んじるDを、VIAの活動に携わる誰もが心の底から尊敬していた。
私もその一人である。
アメリカが国際社会で、「イザとなった時、助けてくれるとしたらそれはアメリカしかない」という高い評価を築いているのは、第7艦隊でもNATOでもなく、Dのような人々の永年の「見返りを求めることのない活動」かもしれない。
物的な繁栄を追求するアメリカ人に、清貧のような価値観は通じないと思っている人が多いが、そんなことはない。
アメリカには多様な価値観があり、少なくともクエーカー教徒にはDのような生き方をする人がいる。
大学3年生で就職を考えていた私には、JHもDーKも大きな憧れであった。
彼らが住むアメリカに行きたいという強い憧れを持ち、結婚したときのハネムーンにもカリフォルニアにやってきて、家内と一緒にJやエメリーやDを訪ねた。
結局この国に永住することになったのだが、私は移民としては最も恵まれた一人である。
ベトナムのボートーピープルは着の身着のままで共産主義の脅威から逃れてきた。
当社のJ・オウの両親などは、まずは朝鮮戦争の時に共産主義から逃れるためにピョンヤンからソウルに移り、それから今度はP大統領の軍事独裁政権から逃れるためにカリフォルニアに渡ってきたという。
つまり自由を求めて2回移転したのである。
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